昭和歴代首相の印鑑を彫刻した伝説の職人たち

田中角栄元首相の印鑑を手掛けたのは山本石洲
精三木武夫、福田赳夫、大平正芳の印鑑を彫刻した小林吉重
鈴木善幸、中曽根康弘元首相の印鑑は松崎秀碩が彫刻
山本石洲のたった1冊だけ残された作品集

昭和47年(1972)7月、「今太閤」と謳われ絶大な人気を誇った
田中角栄首相の印鑑を彫刻したのが当時70歳の山本石洲翁。

今日(現時点)では往年の姿を撮影した写真も発見されず、
遺されているのは1冊の印影集と晩年作のわずかな印影だけ。
文字通り、謎多き伝説の印鑑職人と申せましょう。

昭和初期に隆盛を極めた、当時銀座4丁目交差点近くにあった
天保年間創業の超・老舗印鑑店「江島印房」の職人を経て、
その後、同店の流れをくむ「長澤印店」の職人となり、
特に晩年は専属の筆頭職人として多くの傑作を世に出しました。

今では少なくなった石洲翁の姿を知る人は皆、口を揃えて
「何とも言えない、独特のムードがある人だった」と言います。
和服が似合うスラリとした長身、端正な顔立ちで目元涼やか、
穏やかな物腰はいかにも頑固な職人というイメージとは異なり、
むしろ知的でクールな孤高の印鑑作家と呼ぶべきかもしれません。

そんな石洲翁の工房は8畳ほどの和室に座り机と裸電球がひとつ。
仕事場からは風流な庭が見え、そこには幸雲地蔵が鎮座。
机の上には水入りのフラスコがあり、裸電球の光を屈折させて
印鑑の表面にだけ当て、その光を頼りに正座して彫刻するという、
なんともムーディかつミステリアスな作業風景でした。

小林吉重の仕事中と横顔写真

小林吉重師は昭和6年(1931)、浅草のはんこ屋に生まれます。
中学卒業後、実家を飛び出して厳しい環境の中で彫刻技術を習得、
昭和45年(1970)38歳のとき、長澤印店社長・長沢頼宏氏に
その確かな彫刻技術を見込まれて同店に入社しました。

その時すでに吉重師独自の作風は確立されつつありましたが、
長澤印店で出会った石洲翁の作品の素晴らしさに感銘を受けます。
その自由闊達な作風を十分咀嚼した上、さらなる研鑽を重ね、
自身の作風と絶妙に融合させて、新たな様式美を構築しました。

石洲翁の後、昭和48年(1973)から筆頭職人となった吉重師は、
翌昭和49年(1974)12月の三木武夫首相私印に始まり、
2年後の福田赳夫首相、さらにその2年後の大平正芳首相と、
4年間で3人の首相の印鑑彫刻を相次いで任されます。

これは、印鑑の仕上りに極めて厳格だった長沢頼宏社長から
石洲師の後任として全幅の信頼を得ていた証と言えるでしょう。

私生活では酒とジョークをこよなく愛する軽妙洒脱な人柄で、
浅草生まれの江戸っ子気質もあって、多くの人から慕われました。

吉重師は平成21年に惜しまれつつ引退、現在は療養中ですが、
長い印鑑職人生活で培われた奥深い審美眼は今なお健在で、
ときおり息子・小林董洋の仕事に助言を与えることもあります。

松崎秀碩最晩年の彫刻作業風景

松崎秀碩師は、小学校卒業と同時に地元金沢のはんこ屋に就職。
その後昭和28年(1963)に上京、有名印鑑店にて修業に励み、
業界の技術競技会で3年連続上位入賞を果たすなど、
若手の実力派として、20代後半からその頭角を現し始めました。

やがて35歳の若さで、業界師弟の登竜門ともいうべき
東京印章協同組合技術講習会の助講師に就任しました。
その仕事ぶりと誠実な人柄を長沢頼宏社長に高く評価され、
昭和50年(1975)から、長澤印店の専属職人に招かれました。

ところが秀碩師の作風は、精緻な直線を特徴としていて、
伸びやかで大らかな「長澤印店流」とは大きく異なっていたため、
何度となく長沢頼宏社長から彫り直しを命ぜられました。

自身は彫刻技術を持たない長沢社長からの要求にも腐ることなく、
「長澤印店流」の作風を習得しようとする地道な努力が実を結び、
その後、鈴木善幸、中曽根康弘両首相の印鑑彫刻を担当しました。
秀碩師は後に「長沢社長のおかげで成長できた」と述懐します。

平成13年(2001)の開設以来多くの注文が相次ぎ、
80歳を過ぎてなお多忙な日々を過ごした秀碩師でしたが、
平成25年(2013)3月、生涯現役のまま、還らぬ人となりました。


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